太平洋戦争の大嘘 第1章後編


by 藤井厳喜

日米関係はずっと悪くなかった

ペリーが来て、日本は無理やりアメリカに開国させられたという事実はあるのですが、明治のころの日米関係はどうだったかというと、実はそんなに悪くはありませんでした。

ヨーロッパの国とアメリカは違うと思っている日本人も多くいました。それを示しているのが、アメリカへの移民が、明治の初めからずっと続いていたことです。

最初の移民は1868年(明治元年)で、ハワイに行きました。 「元年者」と呼ばれる150人ほどの移民がハワイに到着した記録があります。そのころは、先ほども言ったようにハワイはまだアメリカの一部ではなかったのですが、すでにアメリカの影響力が強くて、ハワイに行った移民の一部はやがて本土カリフォルニアに渡っていきました。このように、長年にわたって移民を受け入れてくれているほどでしたから、日本から見てアメリカに対する感情は必ずしも悪くなかったのです。

1923年(大正12年)の関東大震災のときも、アメリカから大変な援助が来ています。震災発生を知ったアメリカの第30代クーリッジ大統領が、アジアに寄港中の艦隊に救援物資を満載して送ったり、医療団派遣を決めています。義捐金募集を呼びかけると多大の義捐金が集まりました。このように、アメリカの対日感情は悪くなかったのです。

実は06年のサンフランシスコ地震があったときに、日本は高額の義捐金を出しました。当時にしては最大規模の義捐金を送るなど、日本政府初の海外緊急援助となりました。関東大震災の大規模な支援も、サンフランシスコ大地震での絆から生まれたものだったのです。

当時のアメリカは、ヨーロッパのイギリスやフランスなんかと違ってまだ若い新興国でした。日本人の中には、そんなアメリカに対する好感情が結構存在したのです。

それだけではなくて、アメリカの大衆文化が日本に浸透します。まず、アメリカの野球が日本に普及します。31年と34年(昭和6年と9年)にはルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらの米大リーグ選抜チームが来日しますが、これが大変な人気になります。その後、このとき対戦した全日本チームが中心となってプロ野球が生まれます。

それから、ジャズもアメリカから入ってきます。ラジオを通して、ローリング・トウェンティーズ(狂騒の20年代)に代表される当時のアメリカの大衆音楽がどんどん入ってきていました。また、当時はレコード文化ですから、ジャズが流行るとレコードを買って、蓄音機で聴くスタイルも広まりました。これもアメリカ文化です。

このように、アメリカという国に対して、一般的な日本人の多くはポジティブで良いイメージを持っていました。今の時点から結果論で見ると、あたかも日米が戦争せざるを得なくなったかのように決めつけられることが多いのですけど、それはどうかなと思います。結果論と宿命論では生きた歴史はわかりません。実際のところ、日米両国の関係は長い間、悪くはありませんでした。何も昔から日本人は鬼畜米英と叫んでいたわけではないのです。

対日感情を大きく変えた移民排斥運動

ところが、あるときそれが一八〇度変わってしまいます。アメリカにおける移民排斥運動の始まりです。カリフォルニア辺りから、日本人移民だけを排斥するという運動が起こりました。

なぜ、そうなったかと言いますと、カリフォルニアなどで日本の移民が力を持つようになったという事情があります。人口自体は多くはなかったのですが、日本人移民はみな真面目に働いて、そのお金をコツコツ貯め、それで土地を買っていくのです。その結果、当時のカリフォルニアの農業生産の1割ぐらいを日系人が占めるということになったのです。

また、アジアからの移民というと日本人だけでなくチャイニーズもたくさん行って います。当時のアメリカは鉱工業や鉄道建設で労働力を必要としていましたから、1842年(天保13年)に南京条約で開国したチャイナから、安価な「契約労働」を結ばされたチャイニーズがいち早く苦力(出稼ぎ労働者)として送り込まれてきました。その人たちの生き残りがいました。

しかし、チャイニーズは農業をやらないのです。彼らは商人なので、ちょっとお金ができると、みな都市に行って、商売を始めるようになります。だから農村で土地を買って、自分たちの土地にして、それで農業をやるのは、日本人くらいだったのですね。これは、今もそうだと思います。

このころのチャイニーズと比べると、日本人は勤勉で、真面目に働き、お金を稼いで、それで土地を買って広げていくと見られていました。移民一世は、子どもの教育はちゃんとしたいからと言って、日本に二世を送って教育して、またアメリカに戻したりします。そうすると、アメリカに同化しないと言われてしまう。

だから、アメリカの白人の農家からすると、日本人が大変な脅威に映るわけです。このままではカリフォルニアは彼らに乗っ取られてしまう、そういう話が広まるようになりました。

排外主義を煽る質の悪い新聞が悪質な反日プロパガンダを広めます。そんなプロパガンダをやられるものですから、日本人がターゲットにされて、日本人移民だけを排斥するという法律が通ってしまいました。1924年(大正13年)4月に、いわゆる排日移民法が米国上下両院で法案として可決され、時のクーリッジ大統領の署名により5月26日に成立します。これが、日米関係が悪くなっていくきっかけになります。

日本人にとって衝撃的な出来事だった、排日移民法の成立

同じ年のある悲劇的な事件についてお話ししましょう。

赤坂には今もアメリカ大使館がありますが、そのすぐ脇の井上子爵邸――当時は震災で焼け跡になっていました――で、5月31日早朝、排日移民法に抗議して割腹自殺した日本人がいます。排日移民法の成立は、その直前の5月26日でした。彼は、次のような遺書を残して自刃しました。

「予が死を以て排日条項の削除を求むるものは、貴国が常に人道上の立場より平和を愛好唱道せられ、平和の指導者として世界に重きを思はしめつつある貴国が、率先して排日法案の如き人道を無視した決議を両院通過して法律となるが如きは、実に意外の感に耐えざるなり。 (中略)生きて永く貴国人に怨を含むより、死して貴国より伝へられたる博愛の教義を研究し、聖基督(キリスト)の批判を仰ぎ、併せて聖基督によりて貴国人民の反省を求め、尚一層幸福増進を祈ると共に、我日本人の恥しめられたる新移民法より排日条項の削除せられんことを祈らんとするにあり。
大日本帝国 無名の一民」

この遺書を見ると、この人はキリスト教徒ではないかと感じさせられます。アメリカというものにこれまで好感を持ってきたけれども、日本人だけを差別する法案を通したのは、誠に故なき差別であり、日本人に対する屈辱であり、一命をもってそれに抗議する、という内容です。

これは単純な反米ではありません。アメリカはけしからんじゃないか、と単純に言っているのではなくて、アメリカが日本のことを理解してくれないということに対して、本当に憤懣やるかたなくて、それに抗議している。この自決した人物は、最終的には、日米友好を祈っているのです。今まで信じていたアメリカに故なく裏切られたという怒りと悲しみが、遺書から読み取れます。

この人は名前がわかるものを何も所持していなかったのと、遺族も名乗り出なかったために、警察は死体の始末に困ってしまい、無縁仏として赤坂の寺に葬られそうになりました。これを救うべく愛国運動の重鎮として活躍していた頭山満翁らが発起人となってこの無名の愛国者の国民弔祭会が開かれます。彼は無名烈士と呼ばれました。このときの来弔者は3万人を数え、無名烈士の義挙が大きく一般に知れ渡ることになりました。その後、ご遺体は青山墓地の片隅に埋葬されました。頭山翁が「嗚呼無名烈士之墓」の題字を揮毫した墓石が今も立っています(現在も年1回、無名烈士の慰霊祭が行われています。慰霊祭は頭山満翁の孫の頭山興助先生が会長を務める呉竹会が主催しています) 。

それくらい、排日移民法の成立というのは、当時の日本人にとってショッキングな出来事でした。それまで日本の移民を快く受け入れてくれていたアメリカが、日本人を差別するようになったのです。

このような排外主義のターゲットに日本がなった裏には、何があるのでしょうか。ひとつには極東で日本がどんどん力をつけてきているということがありました。そしてもうひとつは先ほども書いたように、アメリカ人から見れば、日本人は勤勉だと思われていますから、日本人移民がどんどん入ってくると、それこそカリフォルニアが日本に乗っ取られるんじゃないか、という恐怖が実際あったのだろうと思います。

日米は、どこかの段階でぶつからざるを得ない運命にあった

第一次大戦までの世界は、パックス・ブリタニカです。大英帝国を中心として世界の秩序が保たれていました。第一次大戦ではイギリスが勝ったものの、大きく力が後退します。

するとそれに代わって、アメリカのような新興国がどんどん伸びてきます。南北戦争を終えてからのアメリカは目を海外に移し、太平洋を西へ西へ勢力を伸ばしていきました。極東では、日本が勢力を伸ばしていて、台湾を、そして朝鮮半島を領有するなど、いわゆる列強(大国)の一角を占めるようになります。

つまり、第一次大戦と第二次大戦の間というのは、これといったナンバーワンの覇権国がない状況になっていました。

ソ連もロシア革命の後、重工業化と農村集団化を柱とした社会主義国家を建設するための5カ年計画を重ねていきます。イデオロギー的にまったく違う国であるソ連が、ある程度のレベルまで工業化を果たして、国力を前面に出してくるようになります。

そして、イギリスは落ち目ではあるのですが、それでも今から比べれば世界に冠たる帝国でした。フランスもあちこちに植民地を持っていました。第一次大戦で敗北を喫し、たたかれまくったドイツは、1920年代からナチズムが出てきて力を伸ばしつつありました。

イギリスと肩を並べる強国( 「列強」あるいは「一等国」とも呼ばれました)として、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、ソ連ばかりでなく、日本も地力をつけつつありました。

世界の覇権国の構造というものが大きく変わってきていたのです。

中でもアメリカと日本が太平洋の西側と東側にあって、アメリカが勢力を西へ西へとどんどん伸ばしていく一方で、日本は東アジアで日本を中心とした新しい秩序を作っていこうとしていました。そうすると、日米はもう好きとか嫌いではなくて、やはりライバルにならざるを得なかったということです。それが、第二次大戦の大きな枠と重なって起きたということなのです。イギリスの教科書を見るとそういう書き方をしていますね。しかしだからといって、日米両国があれほどの大戦争をする必然があったわけではありません。

アメリカは、日本がチャイナの利権を独占するのが許せなかった

アメリカは1898年(明治31年)の米西戦争でスペインとの戦争に勝つと、スペインの植民地だったフィリピンを手に入れます。ここは、アメリカの東アジアにおける重要な拠点になります。アメリカの一番の狙いは何といってもチャイナでした。当時から4億人の市場だと言われていましたから、盛んに門戸開放しろ、チャイナの市場に入れろと主張していました。

ところが、日本は地理的に一番近いところにいるうえに、日清戦争、日露戦争に勝っていますから戦争によって合法的に獲得した権利や利権がいっぱいあります。日本がチャイナの権益を独占しようとしている状況を、アメリカは許せないのです。

もちろん、利権というのは、チャイナだけでなく満州国も含んだ話です。日米の間で、戦争に突入した直接の理由となったのが、チャイナと満州なのです。

アメリカは、1941年(昭和16年)の開戦前の日米交渉の過程で、シナ大陸から日本の兵隊をすべて引き揚げろと言ってきますが、日本側がそんな提案を受け入れられるわけがありません。すでに大勢の日本人が合法的にシナ大陸に在住していました。

当時のシナ大陸は、しっかりした中央政府がなくて無政府状態と言ってよい状況でした。中華民国という名前は存在していましたが、その政府は全土を統治していたわけではないのです。アメリカもイギリスもフランスもみな、自国民を守るために軍隊を駐留させていました。中でも日本は居住者も多いからということで、それだけ多くの日本兵を駐留させていたのです。

それなのに日本だけ軍隊を引き揚げてしまったら、これまで合法的に獲得してきた大陸における日本の権益を守ることができなくなります。居住している日本人の安全も守れません。我が国からしたら、それは無理な話です。

アメリカは挙句の果てに、満州からも軍隊を引き揚げろと言ってきます。日本にとって満州は、日露戦争以来、合法的に獲得した権益ですし、満州国は建前としては独立国ですから、他国から干渉される筋合いのものではない、ということもありました。満州国の要請で、日本軍は駐留していたのです。

アメリカはもう最後は、日本が受け入れられないのは承知で無理難題を言ってきたのです。ハル・ノートが最後通牒だとか、事実上の宣戦布告だと言われるのはそういうことです。相手が呑めないことを言って追いつめて、戦争にしようというのが、当時の大統領だったフランクリン・ルーズベルトの腹だったのですね。

日米の衝突は、おかしなことにシナ大陸の利権がほしいというところから生じてきたものだったのです。これは要するにマーケットをどちらが取るかという話にすぎませんし、それもアメリカにとっては将来のあり得るべき利益でしかありません。現実にあるものでも何でもない。石油が出るとか、油田があるところを奪われるとなれば、それはどの国でも戦うでしょうが、将来あそこの市場が欲しいという理由で戦争をするなんて通常はあり得ません。やはりこれは、ルーズベルト政権だからで、日本を追い込んで戦争を始めるために言ってきた口実に過ぎないのです。

私は先ほども書いたように、日米はお互いに力が伸びてきていて、地政学的にぶつかる必然性はあったとは思いますけれども、小紛争に抑えて大戦争にはしない、お互いに利権を調整する道はあり得たと思います。

日本がフィリピンに手を出すなど、領土の取り合いをして日米が戦争に至ったというわけではありません。桂=タフト協定で、日本はアメリカのフィリピン領有を認める代わりに、アメリカが朝鮮半島の併合を認めるという合意を結んでいました。アメリカが本気でシナ大陸と満州の利権を欲しいと言うなら、それを調整する道もあったと思います。シナ大陸も満州国も広大ですから、日米が利権を分け合う余地はありました。

続きは明日配信します。お楽しみに。


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